市内各所に設置されたサイン看板を手がかりに「なめりかわ宿場回廊」をめぐり、古くから人や物資が行き交う交通の要所として発展した、宿場町の歴史や文化、まちの成り立ちを歩いて感じ取ろう。
「おくのほそ道を辿って」コースでは、松尾芭蕉ゆかりの地をめぐります。

市内各所に設置されたサイン看板を手がかりに「なめりかわ宿場回廊」をめぐり、古くから人や物資が行き交う交通の要所として発展した、宿場町の歴史や文化、まちの成り立ちを歩いて感じ取ろう。
「おくのほそ道を辿って」コースでは、松尾芭蕉ゆかりの地をめぐります。
主な移動方法|徒歩、コミュニティバス、電車

Spot.01
平安期頃、今の市域辺りに「堀江荘」という京都衹園社の荘園がありました。文治2年に八坂社の六月会の費用を負担する料所として「梅沢・小泉・滑河」が指定されました。これが滑川の知名の所見です。

Spot.02
かつて白砂青松の海岸だった和田の浜は、戦国時代の古戦場でした。この浜で毎年7月31日に行われる無病息災を願う「滑川のネブタ流し」は、国の重要無形民俗文化財指定されています。

Spot.03
滑川宿東端の神明寺に連続して東に拡大したこの地域は、天保期に「新屋敷」と呼ばれました。万延元年に称永寺が現在地に移り、参道周辺に茶屋街が立ち並び、明治時代に常盤町と改められました。

Spot.04
櫟原神社は、江戸時代に柳原村からこの地に遷されました。境内には、松尾芭蕉の句碑が建立されています。天明3年の「滑川惣絵図」には「神明社」と記されており、この社地に成立したのが神明町です。

Spot.05
人皇十三代成務天皇の勧請にして、後に大宝元年に再興されたと言い伝えられています。社殿、鳥居が国登録有形文化財に認定されています。

Spot.06
江戸時代初期頃、神明町と中町の境界を成す大町川が街道を横切るあたりに鍛冶屋が置かれました。東側には、御蔵所があったため川に橋が架けられ鍛冶屋橋と呼ばれました。

Spot.07
松尾芭蕉と同行の曾良が「奥の細道」の旅において、元禄2年7月13日(新暦8月27日)の夕方に滑川に着いて宿をとったのが、旅籠「川瀬屋」と云われています。

Spot.08
大町は滑川発祥の町で、文治2年京都八坂社の荘園である堀江荘にあった「滑河村」は、ここに成立した村落であったと考えられています。慶長20年加賀藩によって北陸街道の宿場町として再編されました。

Spot.09
北陸街道の中心部を流れる中川河口で町の東西を結ぶ橋の左岸を橋場と言います。藩政時代には、河口の船着き場で年貢米が積み出されるなど、中新川郡の物資の集積地として賑わいました。

Spot.10
新川木綿の生産がされ、綿屋・木綿の商売・染物屋で賑わっていた江戸時代に、町の中央を流れる中川の清流で綿布や麻布を川面にさらす「晒屋」がいたことから由来しています。

Spot.11
享保18年、高月村の高田千右衛門が富山の薬種商松井屋源右衛門から「反魂丹」の製法を習いうけ、反魂丹屋千右衛門と名乗り製造販売したのが始まりとされます。

Spot.12
四間町は享和年間、人家が4軒あったことに由来します。特城寺は、明治13年に現在地に移転してきました。境内には、明和元年に芭蕉70回忌に翁を顕彰するために建立された有磯塚があります。

Spot.13
明治13年、現在地に移転。市指定文化財である室町期とされる梵鐘、釈迦三尊山幅図を所蔵しています。また、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中で詠んだ句の句碑「有磯塚(ありそづか)」があります。

Spot.14
加賀藩の東の御蔵があったことから、東町と名付けられ、のちに吾妻町と改められました。江戸期には、滑川町東御蔵所は御台所と呼ばれ、6棟21倉の米蔵がありました。
Spot.01〜14を順番にまわってみよう!